日本の歴史と天皇・公家・武家​    30回:5/24(日)

            31回:7/11(土) 、32回:8/30(日)  …すべて募集中

  常設日本史講座(各回募集・連続型)                                     

​★中村先生のご専門は、幕末維新です。幕末維新講座は次ページです。

  日本史をもう一度勉強したい人に最適です。一人で教科書のような本を買ってきても、なかなか読み進めません。歴史の表の出来事の裏にある、見過ごしてはならない潮流の話、論理性豊かな話は、4時間もあっという間に過ぎるほど楽しいと大評判です。まず、是非一度聞きに来て下さい!

☆ 中村先生のサイトに、先生が主宰する公開の講座やお土居堀ウォーク、都絵図ウォーク等の情報があります。

講師:中村武生先生(歴史地理史学者、京都女子大非常勤講師)

場所:通常、島本町ふれあいセンターにて(JR島本駅近く)

          12:30-16:30      

★ 5月24日(日) 12:30~16:30 島本町ふれあいセンター・視聴覚室(3F)

                                   (JR島本駅から徒歩5分)

★ 7月11日(土) 未定

​★ 8月30日(日) 未定

日時:年6回(1、3、6、7、9、12月) 土日祝の12:30-16:30のどこかに設定予定

参加費:各回 3500円(当日徴収)…休んだ会は不要

1回4時間。お忙しい方向き。~1時間に1度休憩有

〇 各回詳細なレジュメ作成(by アイリス京都)

〇 そのため復習が容易で、けた回があっても大丈夫

〇 本のプレゼントは申し訳ありませんが、終了しました

​〇 キャンセル料無料。但しご連絡下さい。

​〇新詳日本史(浜島書店、950円)使用。会場で販売。

★5月15日(金)午後アイリス主催

 中村先生の講演「明智光秀のみた

 洛中洛外」あります。

​申込の際、お名前、何日の講座を希望するか、当日連絡が取れる電話番号を明記してください。

  これまでの講座(第1~29回)の内容     下線部をクリックするとレジュメが読めます

​   ガイド目線・面白ポイント      

☆ (第18回)天皇家はなぜ存続したのか? 奇跡の連続+どこかに敬意が残っていた。

☆ (第17回)動くと言うのは、力が盤石ではないという考え方があった。

☆(第15回)朝廷は必ず、次の天皇を王家のどこかから探してくる努力をする。線引きはしっかり

☆(第15回)室町~江戸時代。天皇の権威は大きい! 権威で勝てる→朝廷につながり官位をもらう→天皇のカリスマがアップ

☆ (第14回)承久の乱の後、鎌倉は皇位継承に介入できるようになった

畿内で力を確立した三好長慶と将軍義輝が和睦。義輝は京都に戻り両者の間で争いがない時期がしばらく続く。義輝は手腕を発揮。政権は畿内を中心に大きく勢力を広げた。しかししばらくすると、反対勢力の攻撃にあい、苦境に陥った中、三好長慶死去。その後の政権内で実権を握った松永久秀と三好三人衆が義輝と喧嘩を始め、義輝、暗殺される。義栄が将軍後継となったが、正当性がよりある義輝弟で生き残った覚慶が地方の戦国大名に上洛供奉要請を始める。信長は義昭(覚慶あらため)を奉じてこれに応じる。信長のこの行動はそもそも天下統一を目指していたのか? 最近顕著に進んだ研究成果をもとに考察。

​義昭の呼びかけに一番熱心に呼応したのが織田信長。信長の努力で義昭は上京を果たす。信長が目指したのは、天下静謐(畿内 or 室町幕府の安定)。その努力の最中に義昭が信長に反発を始め、信長打倒を呼び掛けるまでになる。信長にとって義昭は見識のない困った殿様で、家臣として諫めるが、結局諫めきれず、義昭を放り、自身で畿内の静謐化を断行。そして天下静謐が成り、公家や寺社に領地宛行ができた。しかし戦いは全国へ広がっていく。この時代まで百年、地域はその地域の論理で生きていた時代。そうした地域の常識と信長の支配は齟齬をきたすようになり、信長家臣の謀反が相次ぐようになる。秀吉の暗躍。

本能寺の変が起きた天正10年6月2日(1582)の4年前からの政治情勢を検証する。中国地方に出張っていた秀吉は地域ごとにあった支配論理を壊したため、無理が生じて信長への反発となる。まず中国地方で所属の武士が相次いで反乱。次いで摂津の中心、有岡城で荒木村重が叛き、鎮圧に10か月を費やす。一方で、乱を起こす側の拠り所であった大坂本願寺は結局灰燼と帰し、東国では上杉謙信死去。天正9年11月頃、長宗我部の四国全土支配を認めずという問題勃発。この取次役が明智光秀。光秀の第一の家来、斎藤利三は長宗我部の親戚。明智家内で、それ以外も含めて二重三重の危機感があった。光秀は直前に、たまたま警備が手薄になった本能寺を襲うことを決めたのではないか? 文献に書かれた信長の最後をチェックする。

​本能寺の変を起こした光秀を討った秀吉を扱う。桶狭間の戦(1570年)の5年前に確実な資料初見。それまでは一時資料なし。秀吉の発給文書の数は尋常ではなく、この目録がやっと出版されはじめ、秀吉研究がかなり進みつつある。文書から、本能寺の変の知らせを受けた後の奇跡の大返しの様子が追える。信長と嫡男信忠を同時に失った織田家内の内紛の中で、秀吉は勝者になり、いつしか天下一統を目指すようになる。この「天下」は秀吉の時に全国の意味に変わる。

信長と嫡男・信忠を同時に失った織田家では、家督相続者が宙に浮き、混乱が始まる。その過程で、次男・信雄と三男・信孝が世間から後継に不適格と見なさなるようになり、活力があり手堅い動きを見せる秀吉が表舞台に飛び出す。その秀吉も養子・秀勝(信長の子)を早く失い、家康を臣従させるのに苦労する。身分の低い秀吉は、天子の権威を利用して大名たちの統制に乗り出す。天下一統(秀吉の時代に天下は全国に意味に変わる)はまじか。

秀吉は本拠地として、初め大坂城造営に着手し、その工事が続行中に京都の内野(大内裏の故地)に聚楽城造営を始める。その目的は、豊臣政権の安定と権力を誇示することにあり、そのために何より、後陽成天皇の行幸は必要だった。聚楽城の周りには、初めて全国の大名の屋敷が揃い、家族も常駐し、武家の首都となる。聚楽行幸、聚楽城の平面図と在り処の解明の話、武家屋敷の在り処の解明の話等満載。

細川晴元は将軍足利義晴と仲直りし、六角氏・本願寺と手を結び、細川晴元政権(1536-1549)発足。晴元の武将統率力が弱く不安定。泥仕合が続き、結局、元家来の三好に敗れ、今度は三好長慶政権(1550-1564)ができる。しかしまた政権不安定に。京都の外では、戦国大名が台頭。尾張では織田信長の父親、三河では徳川家康の父親、美濃では斎藤道三が活発な動きを示す。

応仁の乱終わり20年(~1500年)。本願寺の力が強大に。細川政元政権内で、細川家の跡目争いがきっかけで政治不安定に。将軍家や大内氏も巻き込んで抗争が続く(50年以上)。1530年代初め、細川晴元により、山科本願寺も抗争に巻き込まれ、六角氏と洛中法華宗徒により寺は破壊され、証如、大坂へ避難。その後、洛中の法華に21本山も攻撃される羽目に到る。将軍義稙、義澄、義晴、京都で亡くなることも叶わなかった。

​☆ (第14回)鎌倉にできた武家政権は、京都を無視して政治を行えるほど力はなかった。

☆ (第14回)白河に発した院政は、江戸時代まで続き、当時の人は、院政を王権の自然な形を受け止めた。

​応仁の乱は11年の争乱の後、京では終結したが、両畠山は京の外へ出て戦闘継続。戦国時代へ。9代義尚、出陣先で没し、波乱含みで10代義材、11代義澄へ。義材、再度将軍へ復帰に成功。本願寺は蓮如が北陸で何十万というファンを得るという奇跡が起こる。上京下京、堺、山科本願寺で防衛のための惣構が作られる。北条早雲とは? 力があった細川政元の家でも跡目争いの内紛が生じる。

1467年、京都で応仁・文明の乱が勃発。京都が戦場となり、多くの寺社が兵火にあい焼失。11年続く。管領畠山家の跡目争いを足利が鎮めることができず、ここに未曾有の大飢饉が追い打ちをかけたが、将軍義政は無関心。息子のいなかった義政は弟に家督を譲る約束をしたところ、息子が生まれ、将軍家も後継争いへ。有力な家来の細川と山名の対立もあり、さまざまな人たちはどちからを頼って東軍と西軍に分かれて戦うが、結局厭戦気分が出てきて終結。結局、義政、将軍職を息子義尚に譲る。

大河ドラマ「花の乱」(義政の御台所日野富子の生涯を扱ったもの、全37章)の動画が無料でサイトで全部の章を見れます。すべてが史実でないにせよ、応仁の乱がなぜ勝者も敗者もないのかが分かります。応仁の乱勃発は18話です。前哨戦・御霊の森の戦いは17話です。

4代義持から8代義政にかけて、京都と鎌倉の間の揉め事から両者の関係が泥沼化。南北朝合体の後、また天皇後嗣問題が起こり、後南朝が活動を始め、土一揆とともに幕府を苦しめる。籤引きで後継となった6代義教が家来に殺害された後、7代と8代は少年が後継となり、側近や母方の力が強くなる。8代義政の時代に、飢饉や洪水や旱魃も起こり、家来の家内の揉め事さえ起こったが、義政は鎮める力がなかった。内乱の始まりの時代。

正平の御一統(1351)はすぐ崩れ、この騒動で北朝も2つの系統に分かれたが、1392年の南北朝統一の後のごたごたで結局、皇統は一つにまとまる(伏見宮家の子孫)。尊氏の跡継、義詮は早死にし、義満が幼くして三代将軍に。補佐として細川氏登場。足利初期は将軍の力が弱かったが、義満は守護の家の内紛を煽り、大きくなり過ぎた守護をつぶしていき、将軍の力が大きくなる。斯波氏も権力者として登場。日明貿易開始。

建武の新政は大混乱。足利尊氏は紆余曲折を経て京都に対し反目することになり、建武新政軍を洛中にて破る。尊氏は独自に新帝(北朝)を擁立(建武の新政崩壊)。その後、天子尊治(後醍醐)は京都に戻った後、脱出して吉野に立て籠ったが(南北朝開始)、次々に良質の武士を失う。尊治崩御。滅びかけた南朝であったが、北朝方で尊氏と弟直義の間で、家来のことでごたごたが始まり、ピンチに立った側が院宣をもらって立ち直るため、南朝、存続する。その中苦境たった尊氏が北朝天子を退位させ、正平の御一統が実現したが、北朝の3上皇と元皇太子が南朝に拉致されるという事件が起こり、半年で御一統はご破算に。尊氏、仕方なく北朝で新帝を立てる。弟直義敗れる。荒れていた近江・美濃・尾張の守護に1年のみ半分の年貢をとることを尊氏が認め(半済令)たことが悪用され拡大することに。

​京都は持明院統と大覚寺統に分かれて、両統迭立。大覚寺統の後醍醐、後見問題から北条得宗家打倒を目指す。専制を極めた得宗家ほの反発から、北条方の足利まで離反し、得宗家滅亡。公家一統を目指す後醍醐の建武の新政は失敗し、足利により打倒される。

​鎌倉の介入で、承久の乱に関与が低い土御門の子の後嵯峨が即位。上皇になった後嵯峨が治天の後継を指名せず死去したため紛糾(南北朝)。そうこうする内に、強い個性と野望を持つ後醍醐が即位。元寇の後のこの頃は、御家人の生活が苦しくなり、永仁の徳政令が出された時代。得宗家への権力集中も併せて、鎌倉に対し不満が増大していた。時は鎌倉滅亡へ。

☆ (第13回)承久の乱で後鳥羽上皇たちが島流しになった後、朝廷側は武装解除することになった。

☆(第11回)資料が少ない時代(平安・鎌倉)、血縁関係を調べると、何が起こっているかが結構わかることが多い。自らの立場をよくするには、血縁関係を固めるのが常套手段。

​☆(第9回)「幕府」とは、朝廷から命じられて出張し、野営中という意味。三幕府という考え方は明治になって東京帝大の学者の案。近代の歴史教育の一環。

​☆(第9回)帝王はどちらにも与しないのが徳。後白河上皇が好みで動いたため、何度も戦いが起こる原因となった。

​☆(第6回)日本は700年軍事国家。これは世界的に珍しい。

☆(第6回)武士の発生で次のことが見落とされきたのでは? 1. 元々、武士は都にいた(衛門府)。2. 都から下って行く貴族の中に高貴な人がいて、地方有力者が競って味方につけた。

​☆(第5回)過去に学んだものでもアップデートが必要。新たな証拠や説が出てくる。

☆(第5回)くずし字を読む技術がすたれてしまった。道標が読めない。150年前はさほど教養がない人でも読めた。敗戦時の教育改革の失敗。

​☆(第5回)近代以前の日本人は「日本史」を習っていない。習っているのは現代人のみ。

☆(第4回)和歌は天皇の最高教養

☆ (第4回)教科書の書き換えが必要となるようなショッキングな発見の例。1. 富本銭 2. 平城京が九条ではなく十条あった(発掘の結果)。そういう時には、何があかんかったのかを考えることが必要。

​☆(第2回)歴史のある時代までは資料がきわめて少ない。当事者の日記や手紙は同時代資料として検証に大事。

​☆(第2回)薬子の変(810)から保元の乱(1156)までの350年間、日本では死刑が行われていない。世界史では魔女狩りが行われていた時代。

​☆(第1回)7世紀頃の国際常識として「立派な国」とみなされるには、律(刑法)と令(政治法)の両方が備わっていること要。日本では文武天皇の頃、やっと両方ができた(大宝律令、701)。

☆(第1回)7世紀頃の常識として、天皇位を継ぐには次の3つの条件が必要(後世の直系の相続がまだ行われていない時代。1. 男性 2. 成人男子 3. 能力のあること

​☆(第1回)昔どのように漢字を呼んだかは簡単にはわからない。ex. 龍馬 りょうま?りゅうま?(良馬と書いたものがあるから判明)

承久の乱の結果、力を増した鎌倉の介入により、皇統は土御門の子・後嵯峨へ。年若の北条氏への執権交代の度に不満の分家筋が将軍と結んで反抗したことを逆に利用し、かえって北条嫡流(得宗家)が強力に。蒙古襲来が社会と宗教に大きな影響を与えるとともに、後嵯峨の息子二人の間の治天を巡る揉め事が南北朝の原因を作る。

​後鳥羽上皇らの承久の乱(1221)、失敗。鎌倉が京都に政治介入できるようになり、上皇・天皇は武装解除させられることになる。鎌倉は御成敗式目(初の武家法)を作り、新補地頭を置き、その後、武家が力を持つ基礎を作る。

3代将軍実朝は妻を京都から迎え、右大臣へ。その拝賀の日、頼家の子、公暁に殺害される。実朝の時代、鎌倉と京都の文化レベルが近づき、新しい風が吹いていた。それを快く思わない在地の武士もいた。4代将軍は京都から迎えることになった。北条氏に内紛が起き、北条政子とその同腹の兄弟に父・時政が追放される。北条氏が次々と有力御家人を倒し、実権を握る。

​平氏追討に成功しても頼朝は居を京都に移さなかったが、京都にいた同腹の妹を通して京都との連絡を保った。しかし娘の入内に失敗し、京都の大事な味方の一人を失う。2代目鎌倉殿の頼家は御家人たちの信頼をえることができず、13名の有力御家人の合議制に移行。頼家、3代将軍実朝、殺害される。そして次々と有力御家人が北条氏によって滅亡する。

治承寿永の乱(1180⁻1185)は源氏が平氏主流を滅亡させた戦いであるが、頼朝を支えた関東武士にとって、これは彼らの自立のための戦いだった。彼らは自分の周りの領地にしか関心がなかった。義経の活躍とすぐその後の没落は、この線上で考えると理解できるのではないか。

平治の乱(1160)で平清盛の一人勝ち。後白河上皇は政争を生き抜くため清盛に期待したが、力が大きくなりすぎて却って脅威になる。種々の矛盾があり、反発勢力が勢力を増し、以仁王の令旨で立ち上がった源氏により平氏滅亡。

​1186~1192年、3人の上皇(白河、鳥羽、後白河)による院政時代(上皇が政治的決定権を握った時代)。鳥羽上皇崩御後、平安京のまんなかでの王家の争いに源平が介入し、その軍事力で決着がつく(保元・平治の乱)。2つの戦いの結果、平清盛と後白河上皇が勝ち抜き、源頼朝は当然殺されるべき人だったが生きながらえる。

藤原氏の娘が天皇の男子をうまなくなり、天皇の外戚でなくなると、元天皇(院)が実権を握る院政へ。元はお金も権力もなかった院に社会進出をしたかった武士が目をつけ貢ぎ、院はお礼に官位を与えた。

地方に下った役人が利権をあさったため、地方有力者が対抗して武装化。都から下って行く貴種(源、平etc.)は本来敵だが、これを味方に引き入れるとこんな都合がいいことはない。平将門の乱、前九年の役、後三年の役etc.が起こる。

藤原北家の中の氏の長者を巡る熾烈な争いで、藤原道長が外戚の立場を利用し権謀術数でのし上がる。道長の財産は日本最高に。この頃、中央から地方へ派遣された役人が私利私欲のために傍若無人。それに対し、力を使える人は武力に訴え(武士の発生)、力を使えない人は地方役人に取られないよう、土地を摂関家に寄進。道長の子、頼通は娘が誰も天皇の男子を生まず、摂関政治終焉へ。

​一番よかった時代の最後と言われる醍醐天皇(885‐930)と村上天皇(946‐967)の時代。古代の理想、律令の最後の頑張りの時。次の冷泉天皇の治世下、藤原北家が裏で糸を引き安奈の変(969)が起きて、摂関常置へ。皇統は藤原北家との絡みで決まっていく。

承和の変(842)が起こり、良房が外戚になるべく力が働き、文徳天皇即位。その子の清和天皇(初めての少年天皇)の時、良房、人臣初の摂政へ。応天門の変(866)etc.で他氏の排除。醍醐天皇治世下の902年、律令の基本である班田収授法の最後の実施。

桓武天皇の3人の息子は皆、天皇に。平城天皇は薬子の乱でつまづいたものの、嵯峨・淳和治世下乱なし。この仲のよい2名の天皇の息子たちが順に天皇位に着くことになっていたが、嵯峨上皇崩御直後に承和の変というクーデタが起き、政治状況は一変し、藤原北家台頭へと動き出す。平安初期の政治と宗教政策概観。

平安初代の桓武天皇(781‐806)はやり手の天皇だった。しかし実は大きなコンプレックスを抱えて乗り越えた人。そのコンプレックスとは?

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