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日本の歴史と天皇・公家・武家​   
   
  58回:   5月 6日(月、祝)… 募集中
  59
回:   9月 8日(日)  … 募集中     60回:  12月1日(日)… 募集中

  常設日本史講座(各回募集・連続型)                                     

​★中村先生の近代史講座は次ページです。

  日本史をもう一度勉強したい人に最適です。一人で教科書のような本を買ってきても、なかなか読み進めません。歴史の表の出来事の裏にある、見過ごしてはならない潮流の話、論理性豊かな話は、講座があっという間に過ぎるほど楽しいと大評判です。まず、是非一度聞きに来て下さい!

講師:中村武生先生(歴史地理史学者、京都女子大非常勤講師)

☆ 中村先生のサイトに、先生が主宰する公開の講座やお土居堀ウォーク、都絵図ウォーク等の情報があります。2020年春からオンライン講座も始められました。





 現在すべてオンライン講座です。            
 資料はファイルで当日朝10時頃、送ります。
  参加費2000円
     事前振込、振込料はご負担下さい。振込先はお知らせします)
   *放映後、見逃し配信あり(14日間視聴可)
   
*2020年春からオンライン講座(1回2.5時間)に切り替えて
   おります。30回までは会場で、1回4時間で行っていました。

〇 各回詳細なレジュメ作成(by アイリス京都)
〇 そのため復習が容易で、けた回があっても大丈夫
​〇 キャンセル料無料。但しご連絡下さい。
​〇新詳日本史(浜島書店、950円)使用。会場で販売。

​申込の際、お名前、何日の講座を希望するか、当日連絡が取れる電話番号を明記してください。

オンライン講座は、動画と資料の送り先を明記して下さい。資料はメール(ファイル)かファックスで。メール優先でお願いします。

​   ガイド目線・面白ポイント      

  これまでの講座(第1~57回)の内容     
         
下線部をクリックするとレジュメが読めます

☆ (第18回)天皇家はなぜ存続したのか? 奇跡の連続+どこかに敬意が残っていた。

☆ (第17回)動くと言うのは、力が盤石ではないという考え方があった。

☆(第15回)朝廷は必ず、次の天皇を王家のどこかから探してくる努力をする。線引きはしっかり

レジュメの文責:アイリス京都

​角倉家が御土居支配を任されて50年後に作成された史料から、御土居が藪地として重要であることがわかる。そこには洛中洛外の藪地も丁寧に記載され、徳川公儀が竹を大事にしていたのも見てとれる。その一つ一つの藪地を、1700年頃の京都絵図で確認した。寛文13~延宝4年(1673-1676)京都では重要な屋敷の火事や賀茂川洪水が相次ぐ。その後延宝6~8年(1678-1680)東福門院・後水尾上皇・4代将軍家綱が死去。霊元は親政を開始。その暴走を食い止めようとする公家たちと霊元の戦いの新たな時代が始まる。

延宝8年(1680)、4代将軍家綱が子がないまま死去。後継を巡って一悶着あり、皇族中継ぎを主張した大老酒井の案が通らず、家綱の異母弟綱吉が後継に決まる。酒井は失脚し、この件で功があった堀田正俊が取り立てられる。この年、京都では後水尾上皇が死去。霊元天皇は、上皇2名がいるにもかからわず、親政を初め、意のままに振る舞う。江戸では、綱吉の嫡男が死去し、天和4年(1684)江戸城内で堀田が殺害されると、綱吉は自分を擁立した人物がいなくなり、自由に振る舞えるようになる(→生類憐みの令)。この年、東大寺大仏殿(3代目)再興開始。

貞享4年(1687)から東山天皇と霊元上皇の時代を迎える。この年、江戸では生類憐みの令が出される。綱吉の早すぎた理想が誤解された面と、忖度による役人の過剰な反応で、綱吉の死とともに終わることになる。禁裏では大嘗祭や加茂祭が復活。公儀では側用人が力を持つようになり、元禄小判(悪質な貨幣)が鋳造される。

1700年目前。江戸は綱吉の時代。金含有量半分の元禄小判で徳川の資金繰りが楽になった功績で荻原重秀が勘定奉行へ。禁裏では本院興子(後の明正院)崩御。こうした訃報等は当時の回覧板・町触れで衆知される。町触れから当時の世相が見える(幾つか読んだ)。元禄10年(1697)公儀による天皇陵の修陵と調査が始まる。元禄14~16年(1701~03)赤穂事件。綱吉は江戸城内を清浄に保つことに腐心していたため、城内での刃傷は侮辱的だったが、切腹という武士の礼をもって処する。元禄17年(1704)綱吉の娘の鶴姫死去。これにより夫の紀州綱教の次期将軍後継がなくなる(その後幾つかの偶然から後に8代将軍吉宗が誕生することになる)。

京都の名刹の復興に尽力しいた桂昌院は宝永2年(1705)死去。その3年後に京都では宝永の大火。禁裏外郭九門はいつできたか? 宝永6年(1709)綱吉と天子朝仁(のちの東山天皇)が死去。実子が存命でなかった綱吉の後継は甥の綱豊(6代家宣)。しかし家宣は3年後に亡くなり、嫡男家継へ継承されていく。この2代に渡り、新井白石と間鍋詮房が政権を担い、生類憐みの令廃止、新宮家創設、朝鮮通信使の接待簡素化、将軍の対外的名称変更等の政策を実施。新井白石の著作から、徳川家への重要な提言等を読む。

家綱の治世の時代(1651-80)。天子良仁(後西天皇)から織仁(霊元天皇)へ代替わり。満9歳践祚のため、後水尾法皇を初めとする天子補佐体制が禁裏に作られる。そこで設定された近習衆(若い公家4人)が織仁とともに何度も顰蹙を買う行動を起こし、物議をかもす。江戸にも伝わり、新たに議奏という権限のある職が禁裏に設けられ、関白と武家伝奏と3者で朝議の構成員となる(幕末まで続く)。寛文8年(1668)京都町奉行(東と西)が大坂に遅れること50年で設置され、手の廻っていなかった京都町政が改善されることに。

​家光の時代に徳川公儀は諸大名が逆らえないほど大きな力を持つ。慶安年間(1648-52)に家光死去、嫡男家綱が4代将軍を継承。家光没後、日本中に発生していた大量の浪人の苦難を背景に、公儀転覆を目指す慶安事件が起こる。家綱側近はこれを問題視し、根本的対策を講じて穏やかな社会を運用するように方針転換を行う。慶安の御触書、天皇家の埋葬が火葬から土葬へ。明暦の大火による公儀の財政悪化。

天草四郎の最期(細川家家譜から)。参勤交代制度の確立。オランダ商館の平戸から長崎出島へ移動と"いわゆる「鎖国」"の完成。"いわゆる「鎖国」"の実態とこの制度に到る道のり(キリシタン禁教が全面に出る)。寛永20年(1643)田畑永代売買禁止令。この年、天子興子が紹仁親王(のちの後光明天皇)へ皇位禅譲。家光の段階で徳川権力の基盤が固まる。

​家光の時代、家康21回忌が巡る。日光東照社のほとんどの社殿が造り替え。これは伊勢神宮の式年遷宮に倣ったもの。現在の主要な殿社はこの時できる。「宮」号を得ることに成功し、東照宮と名を新メル。寛永通宝の鋳造開始。西本願寺で焼失していた御影堂が復興。寛永13年(1639)天草島原一揆勃発。幕府は鎮圧に手間取る。慶長16年(1639)にポルトガル船来航禁止。唯一の公許遊郭島原が京都のはずれにできる。洛中に大名・当主の妻たちが屋敷を構えた理由。

既に家督を家光に譲っていたが、実権を握っていた秀忠が、寛永9年(1632)、死去。3代将軍家光は独り立ちを迫られた。歯向かう者に容赦しないことを示すため、2名の有力武将を改易。この頃京都では、名刹が頻繁に被災し、復興を担うことになった。寛永11年(1634)、30万余を率いて家光上洛し、武威を見せつける。翌年、江戸に戻った家光は、日本人の海外渡航と帰国を禁止し、いわゆる「鎖国」が始まる。

元和9年(1623)将軍が家光から秀忠に代わるが、秀忠が亡くなる寛永9年(1632)まで、江戸城西の丸で秀忠が実権を握った。入内した和子は中宮へ。寛永3年(1626)には5日間の行幸が華々しく行われ、家光への権威付けがなされる。そのすぐ後、秀忠室・家光生母の浅井江が江戸城で死去。江と秀忠の増上寺の墓のその後について話があった。和子は天子政仁(後の後水尾天皇)と秀忠が間が険悪で、大層苦労する。紫衣事件が起こり、政仁の望む退位を認めるかでもめる。秀忠は禁裏と円満にいくように努力し、両者の決裂を回避、亡くなると、本当に家光の時代が始まる。

元和4年(1618)~元和10年/寛永元年(1624)。この時期徳川公義が目指していた和子入内の前に御与津御寮人事件(天子政仁に男児と女児誕生が起き、母方関係者処罰)起こる。伏見城の機能を大坂城に移転、大坂城・江戸城の修復命令、京都の大火、和子入内、家光の将軍宣下(伏見城で。その後、伏見城は使われなくなる)、和子女一之宮出産、高台院没(屋敷は上皇御所として再整備)etc.

​家康没の少し前からその後の時代(1615-1618)に起きた事柄。鷹峯の開発、桂離宮できる、伏見城と二条城の使い分け、秀忠の朝鮮通信使謁見、後陽成院薨去(追号・陵墓)、秀忠の名によr諸侯・公家・寺社への所領安堵、東照社建設が始まる、御与津御寮人事件etc.

慶長20年(1615)5月8日、秀頼自刃で、名実ともに徳川公儀だけの時代となる。その後3か月以内に、社会統制のための重要な法律が、用心深く様子を見ながら次々と発布される(一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗本山本寺諸法度)。禁中並公家諸法度で初めて天子の行動を規制し、諸宗本山本寺諸法度で作られた本山末寺制度は今に続く。その翌年の4月17日、家康は駿府で生涯を閉じる(数え77歳)。家康は、久能山(神式)で永眠することを遺言した。当初、明神となる予定だったが、死後3日して論争が起き、結局、天海が強く主張した「権現」を秀忠が選び、これに対し勅許を得る。また、遺言を超えて、1周忌に日光に改葬された。

大阪冬の陣の後の和議の条項を巡る一悶着から、大坂城は堀のない裸城となる。しかしここに集まった浪人衆は城を去らない。その不穏な動きを織田有楽斎が家康に伝えると、家康は出陣の号令を再びかける。戦いは広範囲に及び、5月6、7日が大坂城決戦。これで負けた豊臣家は滅亡。この頃書かれた書簡や宣教師の報告等から、実際に何がおこっていたかを検証する。

東山大仏と大仏殿は、慶長19年(1614)についに完成。その開眼供養と堂供養を巡って、家康と大坂方の間でいざこざが生じ、家康は特に鐘銘の「国家安康」が不適当と憤る。当初は戦いまで発展するとは誰も思っていなかったが、この件の大坂方の担当の片桐勝元が、問題解決のための三か条を秀頼・茶々に示すと、事態は急速に悪化し、且元は命を狙われて大坂城を去り茨木城で籠城に到る。且元は家康からの付け家老であり、家康はこれに腹をたて、出陣を決める。双方で誤解が生じている様子を書状等で追う。戦いは10/12に始まり、大坂城の堅固な惣構は不落だったが、郊外の戦いでは大坂方は負けが多い。12/20和議成立。しかしその内容を巡って、次の一悶着が始まる。

政治的見地から見た秀頼の寺社造営について。一連の修造事業はあくまで豊臣家によるものだが、家康の力が増す中で、特に秀頼の領地外では、家康の事前承認が必要となる。しかし家康が国家支配において重要と判断するもの(東山大仏、禁裏普請等)は自らが積極的に関与。平和の時代が到来し、あるべき秩序を見える形に示すことが求められ、その中で秀頼とその資金がが使われたと考えられる。

​慶長16年(1611)以降、家康は武家官位を定員外にし、秀忠は禁教令を出す。東山大仏の鐘の銘についても問題に。これらがその後の政局に影響を及ぼしていく。

前回に引き続き、まず秀頼の寺社造営問題。地域的には摂津・河内・和泉(秀頼の領地)が多い。徳川の力が増した慶長9年(1604)辺りが最多で、その後減少するのは、東山大仏殿建立に力を注ぎだしたことと関連。それから400年たった現在、焼失したものも多い。

慶長11年(1606)からの顕著な動きとしては、この年から慶長16年(1611)まで家康は上方を留守にするようになる。秀忠も上方不在。「上方における徳川権力確立」の判断があった模様。次の家康上洛は天皇交代の儀式出席のため。この時、秀頼に面会を求め実現。併せて、この頃の外交問題の説明あり。

第39回(2021/6/20) 『家康が秀頼を怖がらなくなったのは

              いつか 

​慶長8年(1603)家康は伏見城で征夷大将軍宣下を受ける。その数日前、家康は大坂城に出向き年頭礼を行うが、将軍になるとこれをやめる(臣下の礼をとらなくなる)。2年後、嫡男秀忠に将軍職が引き継がれる。この間、公武で豊臣秀頼関白就任の噂があったが、実現しない。これは家康による妨害か。水面下でどちらが力が上かの激しい攻防が続く。慶長20年(1615)の大坂夏の陣での秀頼滅亡の前の慶長10年代のどこかで、家康は秀頼の脅威を感じなくなったもよう。それを、家康・秀忠の上方滞在の有無、書札礼、官位執奏権に着目して検証する。秀頼の寺社造営にも触れる。

1600年の関ヶ原の戦いは「秀吉没後、誰が秀頼を守るか」の戦い。勝利した家康は豊臣公儀の「一番の家老」となるが、事実上の天下様。破壊された伏見城を直ちに直し、ここに移るとともに、大名屋敷を大坂から伏見へ移す。そして3年後、伏見城で将軍宣下を受ける。最初から家康が秀頼からの力の奪取を狙っていたように見えるが、実際は状況を見ながら段階を踏んで、秀頼を廃した新しい徳川の時代へ移行していくことを見ていく。

​家康は豊臣大名を引き連れ、上洛要請を拒否する上杉討伐に東国に向かう。その留守中に事件が起こる。三奉行から家康に弾劾状が出され、家康は秀頼から罪人扱いとなる。必死の懐柔策が功を奏して、家康とともにいた東国大名は家康方につく。家康の居城となっていた伏見城が三成方に攻撃される。東軍は西上し、西軍は東下し、ついに関が原で合戦が起こり、東軍勝利。最近、関ヶ原の戦いの研究成果が著しく、従来語られてきたことがいろいろ疑われている。

​秀吉死去から2年後に関ケ原の戦いが勃発するまでの過程を追う。秀吉が亡くなると、後継の秀頼(満6歳)を支えるはずの五大老・五奉行の筆頭の徳川家康が、挑発的な活動を活発化し、豊臣家内紛のような事態になる。大名たちは屋敷を伏見から、秀頼のいる大坂に移し始め、大坂は豊臣公儀の城の様相を呈し始める。

秀吉死去の前年(慶長2年(1597))、大仏が失われていた東山大仏殿に甲斐から善光寺如来を移す。この「大仏」境内は現在の豊国神社・国立博物館・三十三間堂・妙法院・智積院を含む広大なもの。この年、拾は数え5歳で元服(秀頼へ)し官位をもらうが、秀吉は年末から病。これ以降何度も倒れ、その都度蘇る。慶長3年(1598)になり、死を意識したか、死後に秀頼を大坂に移すため、大坂城三の丸拡張を始め、朝鮮撤兵を指示し、補佐役として五大老五奉行を定め、特に利家と家康の役割を遺言に記す。8月15日死去。「豊国大明神」の神号がされ豊国社創建。秀吉後がすぐ波乱含みで展開を始める。

伏見は武家の首都(全国の大名が屋敷を持ち、ここに家族とともに常時住む)。トップクラスの武家は城下町の一等地に上屋敷を構え、下屋敷は惣構堀の外にあったと推定される。文禄の役(第1次朝鮮出兵)の和睦交渉で、秀吉は日本の冊封を請け入れてでも勝利の演出をしようとしたが、明側に断られ、1597年、再度の出兵を余儀なくされる(慶長の役)。その年、洛中に新しい城(京都新城)普請開始。その遺構の石垣を伴う堀の発掘のニュースが、今年5月に報道されたばかり。

1595年の秀次事件で豊臣公儀は権威の建て直しを迫られる。秀吉に逆らわないという誓約書を作らせ、聚楽を棄て指月城(伏見)に本拠地を一元化し、そこに大名とその家族を強制移住させ、茶々の妹の江を徳川秀忠に嫁がせる。しかし翌年、大地震発生。城を伏見山(木幡山)に再建。この城の跡地はその後、明治天皇陵になり(立入禁止)、長く調査できなかったが近年調査が進み、大名屋敷跡地とともに解明が進みつつある。

​第一次朝鮮出兵(文禄の役、1592年開始)は泥沼化。翌年、朝鮮抜きで、日本と明国で和平交渉開始。日明双方で、現地の者たちがトップを介せず、偽装までして和睦を進める。秀吉は停戦に応じるが、朝鮮半島の南半分は取ったと思っていて、状況を理解していない。日本の偽装された講和使が偽装された降伏文書を持って明国に向かった。しかし明国内の乱頻発につき、明皇帝に届けるのに1年半かかったが、結局、秀吉が求めていた両国間の貿易は認められなかった。その間、思いがけず、秀吉に次男(後の秀頼)誕生。秀吉は伏見に移り、指月伏見城を本格的な城郭に改造。その後、関白・秀次一家滅亡事件が生じる。

1592年、朝鮮出兵開始。狙いは明国。当初、破竹の勢いで6月までに漢城(ソウル)、平壌を落とす。しかし反撃に合い、補給路を断たれ苦戦に。この夏から隠居所として伏見指月城造営開始。指月城の石垣と堀の最近の発掘結果や、この場所の由緒の話があった(伏見殿)。1593年、和睦。和睦前に日本軍は朝鮮半島南部に沢山の倭城を築く(城郭史研究に役立つ)。講義の初めに、長浜時代に秀吉が男子をもうけたという伝承の由来について説明があった。オンライン講座(2時間半)

1588年の聚楽行幸の際に、全国の武家屋敷が京都に揃った。翌年、第一子鶴松誕生。この後の2年間、秀吉の動き大。1590年、小田原の北条氏を討ち、東北の大名も従い、天下統一成る。御土居堀を含む京都の大改造を行い、今日の京都の基礎を整備するとともに、刀狩令、人口調査、土地所有の抜本的改革を次々と断行。しかし鶴松は数え3歳で亡くなり、弟秀長を既に失っていた秀吉は、甥の秀次に関白の位と聚楽城を譲り、太閤となって政治をみることになる。オンライン講座(2時間)

秀吉は本拠地として、初め大坂城造営に着手し、その工事が続行中に京都の内野(大内裏の故地)に聚楽城造営を始める。その目的は、豊臣政権の安定と権力を誇示することにあり、そのために何より、後陽成天皇の行幸は必要だった。聚楽城の周りには、初めて全国の大名の屋敷が揃い、家族も常駐し、武家の首都となる。聚楽行幸、聚楽城の平面図と在り処の解明の話、武家屋敷の在り処の解明の話等満載。

信長と嫡男・信忠を同時に失った織田家では、家督相続者が宙に浮き、混乱が始まる。その過程で、次男・信雄と三男・信孝が世間から後継に不適格と見なさなるようになり、活力があり手堅い動きを見せる秀吉が表舞台に飛び出す。その秀吉も養子・秀勝(信長の子)を早く失い、家康を臣従させるのに苦労する。身分の低い秀吉は、天子の権威を利用して大名たちの統制に乗り出す。天下一統(秀吉の時代に天下は全国に意味に変わる)はまじか。

​本能寺の変を起こした光秀を討った秀吉を扱う。桶狭間の戦(1570年)の5年前に確実な資料初見。それまでは一時資料なし。秀吉の発給文書の数は尋常ではなく、この目録がやっと出版されはじめ、秀吉研究がかなり進みつつある。文書から、本能寺の変の知らせを受けた後の奇跡の大返しの様子が追える。信長と嫡男信忠を同時に失った織田家内の内紛の中で、秀吉は勝者になり、いつしか天下一統を目指すようになる。この「天下」は秀吉の時に全国の意味に変わる。

本能寺の変が起きた天正10年6月2日(1582)の4年前からの政治情勢を検証する。中国地方に出張っていた秀吉は地域ごとにあった支配論理を壊したため、無理が生じて信長への反発となる。まず中国地方で所属の武士が相次いで反乱。次いで摂津の中心、有岡城で荒木村重が叛き、鎮圧に10か月を費やす。一方で、乱を起こす側の拠り所であった大坂本願寺は結局灰燼と帰し、東国では上杉謙信死去。天正9年11月頃、長宗我部の四国全土支配を認めずという問題勃発。この取次役が明智光秀。光秀の第一の家来、斎藤利三は長宗我部の親戚。明智家内で、それ以外も含めて二重三重の危機感があった。光秀は直前に、たまたま警備が手薄になった本能寺を襲うことを決めたのではないか? 文献に書かれた信長の最後をチェックする。

☆(第15回)室町~江戸時代。天皇の権威は大きい! 権威で勝てる→朝廷につながり官位をもらう→天皇のカリスマがアップ

☆ (第14回)承久の乱の後、鎌倉は皇位継承に介入できるようになった

​義昭の呼びかけに一番熱心に呼応したのが織田信長。信長の努力で義昭は上京を果たす。信長が目指したのは、天下静謐(畿内 or 室町幕府の安定)。その努力の最中に義昭が信長に反発を始め、信長打倒を呼び掛けるまでになる。信長にとって義昭は見識のない困った殿様で、家臣として諫めるが、結局諫めきれず、義昭を放り、自身で畿内の静謐化を断行。そして天下静謐が成り、公家や寺社に領地宛行ができた。しかし戦いは全国へ広がっていく。この時代まで百年、地域はその地域の論理で生きていた時代。そうした地域の常識と信長の支配は齟齬をきたすようになり、信長家臣の謀反が相次ぐようになる。秀吉の暗躍。

畿内で力を確立した三好長慶と将軍義輝が和睦。義輝は京都に戻り両者の間で争いがない時期がしばらく続く。義輝は手腕を発揮。政権は畿内を中心に大きく勢力を広げた。しかししばらくすると、反対勢力の攻撃にあい、苦境に陥った中、三好長慶死去。その後の政権内で実権を握った松永久秀と三好三人衆が義輝と喧嘩を始め、義輝、暗殺される。義栄が将軍後継となったが、正当性がよりある義輝弟で生き残った覚慶が地方の戦国大名に上洛供奉要請を始める。信長は義昭(覚慶あらため)を奉じてこれに応じる。信長のこの行動はそもそも天下統一を目指していたのか? 最近顕著に進んだ研究成果をもとに考察。

細川晴元は将軍足利義晴と仲直りし、六角氏・本願寺と手を結び、細川晴元政権(1536-1549)発足。晴元の武将統率力が弱く不安定。泥仕合が続き、結局、元家来の三好に敗れ、今度は三好長慶政権(1550-1564)ができる。しかしまた政権不安定に。京都の外では、戦国大名が台頭。尾張では織田信長の父親、三河では徳川家康の父親、美濃では斎藤道三が活発な動きを示す。

​☆ (第14回)鎌倉にできた武家政権は、京都を無視して政治を行えるほど力はなかった。

応仁の乱終わり20年(~1500年)。本願寺の力が強大に。細川政元政権内で、細川家の跡目争いがきっかけで政治不安定に。将軍家や大内氏も巻き込んで抗争が続く(50年以上)。1530年代初め、細川晴元により、山科本願寺も抗争に巻き込まれ、六角氏と洛中法華宗徒により寺は破壊され、証如、大坂へ避難。その後、洛中の法華に21本山も攻撃される羽目に到る。将軍義稙、義澄、義晴、京都で亡くなることも叶わなかった。

​応仁の乱は11年の争乱の後、京では終結したが、両畠山は京の外へ出て戦闘継続。戦国時代へ。9代義尚、出陣先で没し、波乱含みで10代義材、11代義澄へ。義材、再度将軍へ復帰に成功。本願寺は蓮如が北陸で何十万というファンを得るという奇跡が起こる。上京下京、堺、山科本願寺で防衛のための惣構が作られる。北条早雲とは? 力があった細川政元の家でも跡目争いの内紛が生じる。

1467年、京都で応仁・文明の乱が勃発。京都が戦場となり、多くの寺社が兵火にあい焼失。11年続く。管領畠山家の跡目争いを足利が鎮めることができず、ここに未曾有の大飢饉が追い打ちをかけたが、将軍義政は無関心。息子のいなかった義政は弟に家督を譲る約束をしたところ、息子が生まれ、将軍家も後継争いへ。有力な家来の細川と山名の対立もあり、さまざまな人たちはどちからを頼って東軍と西軍に分かれて戦うが、結局厭戦気分が出てきて終結。結局、義政、将軍職を息子義尚に譲る。

大河ドラマ「花の乱」(義政の御台所日野富子の生涯を扱ったもの、全37章)の動画が無料でサイトで全部の章を見れます。すべてが史実でないにせよ、応仁の乱がなぜ勝者も敗者もないのかが分かります。応仁の乱勃発は18話です。前哨戦・御霊の森の戦いは17話です。 <動画がYoutubeで見れなくなりました。ビデオを借りれば見れます

☆ (第14回)白河に発した院政は、江戸時代まで続き、当時の人は、院政を王権の自然な形を受け止めた。

☆ (第13回)承久の乱で後鳥羽上皇たちが島流しになった後、朝廷側は武装解除することになった。

☆(第11回)資料が少ない時代(平安・鎌倉)、血縁関係を調べると、何が起こっているかが結構わかることが多い。自らの立場をよくするには、血縁関係を固めるのが常套手段。

​☆(第9回)「幕府」とは、朝廷から命じられて出張し、野営中という意味。三幕府という考え方は明治になって東京帝大の学者の案。近代の歴史教育の一環。

​☆(第9回)帝王はどちらにも与しないのが徳。後白河上皇が好みで動いたため、何度も戦いが起こる原因となった。

​☆(第6回)日本は700年軍事国家。これは世界的に珍しい。

4代義持から8代義政にかけて、京都と鎌倉の間の揉め事から両者の関係が泥沼化。南北朝合体の後、また天皇後嗣問題が起こり、後南朝が活動を始め、土一揆とともに幕府を苦しめる。籤引きで後継となった6代義教が家来に殺害された後、7代と8代は少年が後継となり、側近や母方の力が強くなる。8代義政の時代に、飢饉や洪水や旱魃も起こり、家来の家内の揉め事さえ起こったが、義政は鎮める力がなかった。内乱の始まりの時代。

☆(第6回)武士の発生で次のことが見落とされきたのでは? 1. 元々、武士は都にいた(衛門府)。2. 都から下って行く貴族の中に高貴な人がいて、地方有力者が競って味方につけた。

​☆(第5回)過去に学んだものでもアップデートが必要。新たな証拠や説が出てくる。

☆(第5回)くずし字を読む技術がすたれてしまった。道標が読めない。150年前はさほど教養がない人でも読めた。敗戦時の教育改革の失敗。

​☆(第5回)近代以前の日本人は「日本史」を習っていない。習っているのは現代人のみ。

正平の御一統(1351)はすぐ崩れ、この騒動で北朝も2つの系統に分かれたが、1392年の南北朝統一の後のごたごたで結局、皇統は一つにまとまる(伏見宮家の子孫)。尊氏の跡継、義詮は早死にし、義満が幼くして三代将軍に。補佐として細川氏登場。足利初期は将軍の力が弱かったが、義満は守護の家の内紛を煽り、大きくなり過ぎた守護をつぶしていき、将軍の力が大きくなる。斯波氏も権力者として登場。日明貿易開始。

建武の新政は大混乱。足利尊氏は紆余曲折を経て京都に対し反目することになり、建武新政軍を洛中にて破る。尊氏は独自に新帝(北朝)を擁立(建武の新政崩壊)。その後、天子尊治(後醍醐)は京都に戻った後、脱出して吉野に立て籠ったが(南北朝開始)、次々に良質の武士を失う。尊治崩御。滅びかけた南朝であったが、北朝方で尊氏と弟直義の間で、家来のことでごたごたが始まり、ピンチに立った側が院宣をもらって立ち直るため、南朝、存続する。その中苦境たった尊氏が北朝天子を退位させ、正平の御一統が実現したが、北朝の3上皇と元皇太子が南朝に拉致されるという事件が起こり、半年で御一統はご破算に。尊氏、仕方なく北朝で新帝を立てる。弟直義敗れる。荒れていた近江・美濃・尾張の守護に1年のみ半分の年貢をとることを尊氏が認め(半済令)たことが悪用され拡大することに。

​京都は持明院統と大覚寺統に分かれて、両統迭立。大覚寺統の後醍醐、後見問題から北条得宗家打倒を目指す。専制を極めた得宗家ほの反発から、北条方の足利まで離反し、得宗家滅亡。公家一統を目指す後醍醐の建武の新政は失敗し、足利により打倒される。

☆(第4回)和歌は天皇の最高教養

☆ (第4回)教科書の書き換えが必要となるようなショッキングな発見の例。1. 富本銭 2. 平城京が九条ではなく十条あった(発掘の結果)。そういう時には、何があかんかったのかを考えることが必要。

​☆(第2回)歴史のある時代までは資料がきわめて少ない。当事者の日記や手紙は同時代資料として検証に大事。

​☆(第2回)薬子の変(810)から保元の乱(1156)までの350年間、日本では死刑が行われていない。世界史では魔女狩りが行われていた時代。

​☆(第1回)7世紀頃の国際常識として「立派な国」とみなされるには、律(刑法)と令(政治法)の両方が備わっていること要。日本では文武天皇の頃、やっと両方ができた(大宝律令、701)。

☆(第1回)7世紀頃の常識として、天皇位を継ぐには次の3つの条件が必要(後世の直系の相続がまだ行われていない時代。1. 男性 2. 成人男子 3. 能力のあること

​鎌倉の介入で、承久の乱に関与が低い土御門の子の後嵯峨が即位。上皇になった後嵯峨が治天の後継を指名せず死去したため紛糾(南北朝)。そうこうする内に、強い個性と野望を持つ後醍醐が即位。元寇の後のこの頃は、御家人の生活が苦しくなり、永仁の徳政令が出された時代。得宗家への権力集中も併せて、鎌倉に対し不満が増大していた。時は鎌倉滅亡へ。

​☆(第1回)昔どのように漢字を呼んだかは簡単にはわからない。ex. 龍馬 りょうま?りゅうま?(良馬と書いたものがあるから判明)

承久の乱の結果、力を増した鎌倉の介入により、皇統は土御門の子・後嵯峨へ。年若の北条氏への執権交代の度に不満の分家筋が将軍と結んで反抗したことを逆に利用し、かえって北条嫡流(得宗家)が強力に。蒙古襲来が社会と宗教に大きな影響を与えるとともに、後嵯峨の息子二人の間の治天を巡る揉め事が南北朝の原因を作る。

​後鳥羽上皇らの承久の乱(1221)、失敗。鎌倉が京都に政治介入できるようになり、上皇・天皇は武装解除させられることになる。鎌倉は御成敗式目(初の武家法)を作り、新補地頭を置き、その後、武家が力を持つ基礎を作る。

3代将軍実朝は妻を京都から迎え、右大臣へ。その拝賀の日、頼家の子、公暁に殺害される。実朝の時代、鎌倉と京都の文化レベルが近づき、新しい風が吹いていた。それを快く思わない在地の武士もいた。4代将軍は京都から迎えることになった。北条氏に内紛が起き、北条政子とその同腹の兄弟に父・時政が追放される。北条氏が次々と有力御家人を倒し、実権を握る。

​平氏追討に成功しても頼朝は居を京都に移さなかったが、京都にいた同腹の妹を通して京都との連絡を保った。しかし娘の入内に失敗し、京都の大事な味方の一人を失う。2代目鎌倉殿の頼家は御家人たちの信頼をえることができず、13名の有力御家人の合議制に移行。頼家、3代将軍実朝、殺害される。そして次々と有力御家人が北条氏によって滅亡する。

治承寿永の乱(1180⁻1185)は源氏が平氏主流を滅亡させた戦いであるが、頼朝を支えた関東武士にとって、これは彼らの自立のための戦いだった。彼らは自分の周りの領地にしか関心がなかった。義経の活躍とすぐその後の没落は、この線上で考えると理解できるのではないか。

平治の乱(1160)で平清盛の一人勝ち。後白河上皇は政争を生き抜くため清盛に期待したが、力が大きくなりすぎて却って脅威になる。種々の矛盾があり、反発勢力が勢力を増し、以仁王の令旨で立ち上がった源氏により平氏滅亡。

​1186~1192年、3人の上皇(白河、鳥羽、後白河)による院政時代(上皇が政治的決定権を握った時代)。鳥羽上皇崩御後、平安京のまんなかでの王家の争いに源平が介入し、その軍事力で決着がつく(保元・平治の乱)。2つの戦いの結果、平清盛と後白河上皇が勝ち抜き、源頼朝は当然殺されるべき人だったが生きながらえる。

藤原氏の娘が天皇の男子をうまなくなり、天皇の外戚でなくなると、元天皇(院)が実権を握る院政へ。元はお金も権力もなかった院に社会進出をしたかった武士が目をつけ貢ぎ、院はお礼に官位を与えた。

地方に下った役人が利権をあさったため、地方有力者が対抗して武装化。都から下って行く貴種(源、平etc.)は本来敵だが、これを味方に引き入れるとこんな都合がいいことはない。平将門の乱、前九年の役、後三年の役etc.が起こる。

藤原北家の中の氏の長者を巡る熾烈な争いで、藤原道長が外戚の立場を利用し権謀術数でのし上がる。道長の財産は日本最高に。この頃、中央から地方へ派遣された役人が私利私欲のために傍若無人。それに対し、力を使える人は武力に訴え(武士の発生)、力を使えない人は地方役人に取られないよう、土地を摂関家に寄進。道長の子、頼通は娘が誰も天皇の男子を生まず、摂関政治終焉へ。

​一番よかった時代の最後と言われる醍醐天皇(885‐930)と村上天皇(946‐967)の時代。古代の理想、律令の最後の頑張りの時。次の冷泉天皇の治世下、藤原北家が裏で糸を引き安奈の変(969)が起きて、摂関常置へ。皇統は藤原北家との絡みで決まっていく。

承和の変(842)が起こり、良房が外戚になるべく力が働き、文徳天皇即位。その子の清和天皇(初めての少年天皇)の時、良房、人臣初の摂政へ。応天門の変(866)etc.で他氏の排除。醍醐天皇治世下の902年、律令の基本である班田収授法の最後の実施。

桓武天皇の3人の息子は皆、天皇に。平城天皇は薬子の乱でつまづいたものの、嵯峨・淳和治世下乱なし。この仲のよい2名の天皇の息子たちが順に天皇位に着くことになっていたが、嵯峨上皇崩御直後に承和の変というクーデタが起き、政治状況は一変し、藤原北家台頭へと動き出す。平安初期の政治と宗教政策概観。

平安初代の桓武天皇(781‐806)はやり手の天皇だった。しかし実は大きなコンプレックスを抱えて乗り越えた人。そのコンプレックスとは?

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